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【寄稿】<変革の保存学>序説 — ウィリアム ・ バローと金谷博雄 —

1986年国立国会図書館逐次刊行物部長 安江明夫

1.

米国の製本・修復家ウィリアム・バローが、本の保存史に残した足跡は偉大である。彼は一九二〇年代より図書・文書の保存活動に携わり、その技術的改善、紙の劣化原因の探究、製本・書籍用紙の基準づくりおよび指導等において、数多くの功績をあげた。

なかでもとりわけ、一九五九年に刊行された調査研究—『本の劣化-原因と対処。書籍用紙の耐久性に関する二つの調査』(以下『書籍用紙の耐久性」と略記)—の歴史的意義は大きい。彼はそこで、一九〇〇年~一九四九年刊行の五百冊の単行書を標本に、それらの紙の物理的強度を、人工加速老化実験も加えて測定した。この測定調査から彼は、今世紀前半刊行の図書のうち、二十一世紀まで紙の寿命が永らえるものは、僅か3%に過ぎないと指摘した。短命の原因は、従来の麻や綿に比べると弱い近代書籍用紙の主たる繊維素材=木材パルプ、ならびに繊維を損耗させ劣化を促進させる硫酸アルミニウム(酸性サイズ剤)である。

『書籍用紙の耐久性』の反響は甚大であった。米国の図書館界はバローの調査報告に驚愕し、以後、図書館資料の保存活動は、短命の図書(紙)への対応を中心に新しい時代へと突入する。図書とそれに続く同じくバローの『耐久書籍用紙の抄造と試験』(一九六〇年刊)は、時代転換の契機をなすもので、それらが本の保存史に果たした役割は、言葉どおりに画期的であった。

一九八二年に刊行された金谷博雄氏編・訳の『本を残す—用紙の酸性問題資料集』は、バローの『書籍用紙の耐久性』に等価しうる歴史的意義を日本において有し、それに匹敵する社会的役割を果たしたと私は考える。

バローの調査研究は、米国の優れた図書館人ヴァーナー・クラップと彼が主宰した図書館振興財団の助成を受けて初めて充分の遂行が可能となった。そしてバローの研究の成果は、図書館振興財団の諸活動によって社会化され、人々に対して広範囲なインパクトを与えた。『本を残す』の場合、社会化の役割を主として担ったのはジャーナリズムである。ジャーナリズムを介して『本を残す』は、出版者、著作者、図書館員、製紙メーカー、科学者、一般読者—、”本のコミュニティ”のあらゆる市民の、本の保存問題、酸性紙問題に対する関心を呼び起こし、意識を覚醒した。書籍用紙の主流は、現在、酸性紙から中性紙に切り換わりつつあるが、その契機となっているのが『本を残す』であることは、大方承知のことであろう。『本を残す』の担った優れた役割に対しては、どれほど高く評価しても評価し過ぎることはない。

ところでしかし、なぜ一冊の小冊子『本を残す』がそれほどの特筆すべき役割を担い得たか。

以前私は、ウィリアム・バローの功績に対して同じ設問を試みた。なぜかと言えば、中性紙の開発も紙の短命の劣化原因としての酸の追求も、バローが最初の開発者・研究者ではなかったからである。バロー以前に、既に相当の研究と開発が遂行されていた。しかし時代が転換するためには、社会はバローを必要とした。バローによって初めて、書籍用紙は革新された。それはなぜだったろうか。この問を設定し、一応の答を用意した。それと同じ問を、金谷氏の仕事に対しても設けてみる。中性紙の開発者でも、紙の劣化原因の探究者でもない金谷氏が、書籍用紙と本の保存活動に、バロー同様の画期的役割を果たし得たのはなぜか。バローの場合を念頭におき、それと対比しつつ答を探りあててみたい。それが本稿の主題である。

2.

『本を残す』が画期的役割を果たし得た、その理由は何か。なぜほかの誰か、あるいは何かではなく、金谷氏の『本を残す』だったのか。

この問に直截に答えるのは難しい。そこで私は、もう一つ別の問を設定し、それへの答を用意することにより、先の問にアプローチする仕方で臨んでみることにする。もう一つの問とは、「なぜ金谷氏は『本を残す』を刊行—それも自費で—したか」である。

この問に対しては金谷氏自身が、『本を残す』刊行の動機として、ある程度まで答えている。

例えば「永く残る本を」(『新文化』一九八三年一月十三日号)では、氏が先に翻訳・刊行した『アメリカ出版界の意識』(原題『アメリカの本のコミュニティの責任』—-米国議会図書館、一九八一年刊)についてまず触れ、コングロマリットによる大出版社の買収などの事情の中での米国の出版の危機、本のコミュニティの危機とそれらの議論・検討に注目したことを記している。そして続いて、『アメリカの本のコミュニティの責任』(原書)のタイトルページの裏に、「本書は耐久/耐用紙に印刷されている」という不可思議な一文を見い出したことを記している。

ここに記された動機から、次の答を導くことは誰にとっても易しいはずだ。なぜ金谷氏は『本を残す』を刊行したか。その第一の—おそらくは最大の—理由は、端的にみて、氏が出版界の一員であり、出版の意味と意義を真摯に追求する人間であったからである。あまりにも明白な、単純な答だが、この点をおさえておくことが、『本を残す』、およびそれに続く『工房雑記抄』『ゆずり葉』を通じての氏の仕事を見据えるためにも重要である。酸が紙の劣化原因であることは、紙の科学者には自明であったはずだ。しかしそれを文化の危機と受けとめるには、本のコミュニティの積極的な一員を必要とした。

しかしこれだけでは無論、充分の答とはなり得ない。優れた出版活動を展開し、真面目に出版の意味を追い求め続けている出版者は少なくないからである。

第一の論点に続けて、私は次の三点を、金谷氏の仕事を理解するうえで大切なポイントとして述べる。それらですべてが—とは考えないが、先に立てた問に対する答に、相当程度接近できるのではないかと考える。

そこで二番目の論点。それを私は”周縁性”という社会学・文化人類学の概念に依拠しつつ考えてみる。

一番目の論点で、金谷氏が出版者である点の重要性を指摘した。彼はしかし、出版を業(なりわい)としつつその「出版」と、一般の出版者とは幾分異なる関わりをしてきたように見える。彼の勤務先(であった—と言うべきか)、書協事務局は、出版業界の中核に位置するが、そこでの仕事の内容は、普通に新刊書を企画、編集、製作する出版の仕事から見れば周縁的と言えるのではないだろうか。出版界の全体的情況が見え易い位置にあって、しかも出版そのものとは幾分異相の仕事。氏自身、「酸性紙問題私注—図書館への期待」(『みんなの図書館』一九八三年十一月号)の中で次のように述べている。

「生計を立てるのに頼る職業が本職だとすれば、私のそれは出版社団体(日本書籍出版協会)事務局の仕事であり、具体的には市場にある書籍の総合目録を編集することであった。だが己が本当に楽しめる仕事という意味では、私は和装製本の方が本職だと信じていた。……この『趣味』は、実は世の表通りてする仕事の機械化の進行そのものが私に強いたものであった。裏での『本職』を維持することで、私はかろうじて心身の平衡を保っていたのだ。」

 

「裏での『本職』を維持することで、私はかろうじて心身の平衡を保っていた」と記されているが、それは氏が述べるように「世の表通りてする仕事の機械化の進行」—即ち、機械化による労働の疎外—のみによるのではなく、もう一面、出版業の周縁に位置したことにもよるのではなかっただろうか。彼は『アメリカ出版界の意識』『本を残す』『ゆずり葉』と、いずれも自費で刊行し続けてきた。多大のエネルギーと経済的支出を負担しつつ自分の固有のメディアを創造し、保持してきたのは、彼が出版者であり、しかも企画・編集・製作からやや隔てられた周縁的な出版者であったからではないだろうか。言葉を借用すれば、和装製本だけでなく『本を残す』『ゆずり葉』も、氏の心身の平衡のために必要であった。そしてこのような心的背景から生誕した『本を残す』であったからこそ、その内容と刊行形態と刊行者の情熱が相まって、衝撃的とも評された影響力をもち得たのではなかったか。

「酸性紙問題私注」からの引用箇所には、もう一つ重要なヒントが示されている。それは和装製本への氏の傾倒である。そのことが三番目のキーポイントとなる。

金谷氏の和装製本の実力・経験は、知る人ぞ知る、である。そうでない方も、氏が最近、和本製作の教室を開講したことから、その意欲と力量を推し測れよう。この書かれた紙、印刷された紙、これから書かれる紙を手づくりで綴じて一冊の本に仕立てるという仕事そのことに長年携わってきたことが、『本を残す』を理解するうえで大切である。一冊の本のタイトルページの裏の不可解な一文を見過ぎなかったのも、出版に対する想い入れとともに、本を構成する紙や糸・のり・布に直かに触れることによって養われてきた氏の「本」に対する感受性であったと私は憶測してきた。

“手づくり”という言葉を使ったところで、かって私が慣れ親しんだ柳宗悦『手仕事の日本』を本棚から手元に引き寄せてみる。眼に止まるのは、例えば次の一文である。

「その(手仕事の)優れた点は多くの場合民族的な特色が濃く現れてくることと、品物が手堅く親切に作られることとにあります。そこには自由と責任とが保たれます、そのため仕事に悦びが伴ったり、また新しいものを創るカが現れたりします。それ故手仕事を最も人問的な仕事と見てよいでありましょう。」「人間の手には信頼すべき性質が宿ります。」「そもそも手が機械と異る点は、それがいつも直接に心と繋がれていることであります。機械には心がありません。これが手仕事に不思議な働きを起させる所以だと思います。手はただ動くのではなく、いつも奥に心が控えていて、これがものを割らせたり、働きに悦びを与えたり、また道徳を守らせたりするのであります。」

 

柳の述べるところは、『酸性紙問題私注』で金谷氏が自懐するところに呼応するものがある。また、『本を残す』以来、我々に現示されてきた氏の諸々の特質—例えば創意、創造力、あるいは自由さ、使命感、信頼感、さらにはピューマニズム—とも響き合うものがある。手仕事の和装製本は、酸性紙問題=本のコミュニティの危機的問題を肥えた金谷氏の主体の側の背景にあって、本質的背景をなすと思われる。四番目のポイントがもう一点残されているが、それを論ずる前にバローの場合について少し考えてみたい。

3.

書籍用紙が革新されるために、なぜウィリアム・バローを待たねばならなかったのであろうか。バローが書籍用紙の革新者となり得たのはなぜか。それに対して私はかつて次のように答えた。

「製紙研究者でなかったにもかかわらず書籍用紙の革新者たりえたのではなく、逆説的だが、製紙研究者でなかったからこそ、彼は転轍手の役割を果たしえたのではなかったか。図書館蔵書の保存・修復というバローの職業とした任務の内に、古くからの書物に接し、それらのうちの傷んだものの補修に想いを込めるという仕事の内に、革新者たりえた理由をみることが可能ではないだろうか。しかしそうは言っても、バローが普通の職人的文書修復家であったなら、転轍手の役割をもつことは不可能であったに違いない。彼は職人的経験を拠りどころにしながら、しかもそれにとどまらず、科学的な研究態度で書物の劣化の原因とその対応策を追求した。彼は科学者・化学者としては素人であったけれども、しかも彼の科学研究は、製紙研究者のそれに比肩しうるものであった。それによって多くの製紙研究者の協力を得、また彼らとの協同が可能になった。書物の保存技術と製紙研究の問にチャンネルが成立し、それが新しい視野を開く原動力となっていったように考えられる。バローが職業とした文書修復の真髄に加えて、彼が優れた科学者の眼と精神を備えていたこと、この二つが、書籍用紙の革新者たりえた彼の内側からの要因であったと思われる。」
(「『永く残る本』にむけて—ウィリアム・J・バローの研究開発(後)」『科学技術文献サービス』第六六号、一九八三年)

 

そこで記した考えは今も変わらない。しかし、金谷氏の仕事を理解する作業を行ってきた、その地点から、次のことを言い加え、あるいは言い直して、補強しておく必要を感じている。

バローが文書修復家であることを言うことで、彼が図書館・文書館の仕事に携わる”本のコミュニティ”の一員であることは言い得ている。しかしバローもまた、金谷氏と異なる位相においてだが、図書館からすれば周縁的人問ではなかったか。

バローはコンサベーターであり、それは職業分類からはライブラリアンのカテゴリーに入る。けれどもバローは自らの工房を有し、図書館からの委託を受けた仕事を請負うタイプのコンサベーターであったと推測される。つまり図書館の世界に属しつつ、普通の意味での図書館員(大抵は図書館という組織に属する)ではなかった。そのような仕事の位置づけは、一面では仕事に不安定性をもたらしたであろうが、他面、それだけに自立性、独立性の高いものであったに違いない。バローの多数の工夫・改善はそのような自立的営業の所産であっただろうし、科学的探究の精神はそこでこそ(生活の許す限り)、発揮され得たのではなかっただろうか。バロー理解のうえでも、周縁性の概念は有効であると考える。

『本を残す』三番目の論点とした”手仕事”の魅力と作用については、手仕事の保存・修復家バローに関しては先の論述に付け加えて言うことは何もないであろう。そこで次に、先に引用した筆者自身の答の中では、「書物の保存技術と製紙研究の問にチャンネルが成立し」と述べた点を、コミュニケーションの問題として敷衍しておきたい。

コミュニケーションは、人と人、仕事と仕事、関心と関心を結合させるものである。バローは自分の仕事の必要から、保存・修復家や図書館員は勿論のこと、製紙研究者や製紙メーカーともコミュニケーションを保持していたと見受けられる。少なくとも彼は、職人的仕事がもちがちな伝統志向に陥ることなく、製紙研究の最新の成果をとり込みつつ、新しい修復・保存技術を開発し、獲得していった。彼は手仕事と科学を自分の中でコミュニケートさせたが、それは他の誰もが為し得なかったことである。これこそが彼の仕事の—のちに書籍用紙を革新させた—原動力となったものである。彼の開かれた精神が、新しい時代を切り拓くカとなった。

振り返ってみて金谷氏もまた、開かれた精神の持主として、コミュニケーションの優れた担い手として認めることができる。『アメリカ出版界の意識』『本を残す』そして『ゆずり葉』中の有益な訳稿の数々。バローが製紙・保存研究から多くを学び、自らの仕事の糧としたと同様に、金谷氏は、主として外国の保存学・保存活動から、多くの刺激を受け、学び、そして学び受けとめたものを社会化してきた。彼が『ゆずり葉』という保存コミュニケーションの広場を創造し、維持してきたのは、氏の開かれた精神の為せるわざであったに違いない。紙の劣化/本の保存の歴史をレビューした文献(「永く残る紙の話」本誌連載、特に廿二号参照)のなかでヴァーナー・クラップは、科学的知識(の不足)、コスト、コミュニケーション(の不足)が要因となって書籍用紙が(二十世紀前半においては)革新され得なかったと指摘している。学際的あるいは業際的コミュニケーションを成立・形成させ得たことが、書籍用紙革新の契機をつくったバローと金谷氏の秘密であったと考えられる。このコミュニケーションの指摘が、”本のコミュニティの市民””周縁性””手仕事”に続く第四の、最後のキーポイントである。

4.

書籍用紙の革新と保存活動の推進に重要な役割を果たした金谷氏の仕事(主として『本を残す』そして『ゆずり葉』)について、ウィリアム・バローの貢献との対比のもとに、その特質を理解し論ずることを試みてきた。

そこで私は、バロー(コンサベーター)と金谷氏(出版者)は、両者の仕事の内容においては違いは当然あるものの、その特質においては共通の側面があることを議論してきた。単に、酸性紙問題、本の保存問題という主題を一にするだけでなく、とくになぜ両者が書籍用紙の革新者たり得たかの視点から彼らの仕事を微分する時、そこに共通のアスペクトが抽出されることを見い出してきた。

それは偶然の所産ではない。指摘してきた四つの論点—本のコミュニティ、周縁性、手仕事、コミュニケーション—は、それこそが、彼らが酸性紙のレールを中性紙のレールヘと切り換える転轍手の役目を果たし、本の保存活動の歴史に新しい時代を開拓したその主体の側の特質であったと思う。

米国における一九五九年、日本における一九八二年は、酸性紙問題/資料保存問題の分岐点をなしている。その分岐点をつくりだしたバローと金谷氏を、本稿では転轍手の役割にもなぞらえて説いてきた。この比喩を延長して言えば、転轍手が転轍手たり得るためには、レールを敷設し、汽車を運行する努力とエネルギーが必要である。保存学・保存活動は、この努力とエネルギーによって初めて<変革>へと導かれる。<変革>の担い手は、転轍手だけではない。<変革>は、本のコミュニティのすべての市民の課題であり、なかんずく保存図書館員の使命は大きい。そのことを最後に記して、「<変革の保存学>序説」の筆を擱く。

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