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製本技術の歴史The Development of Bookbinding Techniques
Bernard C. Middleton
2009年05月11日バーナード C. ミドルトン , (木部徹訳)
Bernard C. Middleton
http://ritpress.rit.edu/sites/carypress.rit.edu/files/imagecache/product/bernard012.jpg
初出:『コデックス通信』第1巻1号(1986年4月)、p.1-4。以下の掲載のために、用語の訳語の変更(本文末に説明あり)と、関連する他のホームページへのリンクを付けた。(2009/05/07 木部記)
製本—。一見単純に見えるこの工芸も、一歩ふみこむとその奥行きの深さにおどろかされる。これにたずさわるひとの大半が、熱心をとおりこして、ほとんどとりつかれたようになってしまうのも故なしとしないのである。装飾芸術のひとつという見かたも正しくない。本は読まれるものだから、製本工芸家は審美的なものや知的な関心を表紙の装飾というかたちで表現するが、同時に構造的なメカニズムにも充分注意をはらうことが求められる。かれこれ1700年にもなろうという冊子製本の歴史は、モノとしての本の本体(テキスト・ブロック)–すなわちページを構成する材料の、基本的な物性面の変遷(パピルスやパーチメントそして紙へという素材、その大きさなど)にあわせて展開してきたといえる。原則的には、読むのに支障のない機能をもつとともに、のちのちのための耐久性もあわせて要求されることになる。しかしこのバランスは19世紀の初頭に崩れてしまった。当時の社会情勢、経済情勢の劇的な変化により、最小のコストでしかもビジュアルな要求を満たすものをという新しい需要がでてきたためだ。すでに16世紀から17世紀のはじめにかけて、本の構造には微妙な変化が起きている。これは本の出版部数の急激な増加という現象が根底にあってのことだ。それまでは本は箱や戸棚にしまいこまれて保管されていたが、普通の棚に立てておくことが一般的になった。また原価をさげるためにひとりの職人がたくさんの本を扱うことにもなった。人件費の削減も狙いだったのだろう。本の構造もこうした変化にあわせて変わっていった。当時のファッションの流行りすたりや、新しい素材の登場も本の構造の変化に影響を与えたと思われる。
しかし、今日製作されている革装丁本、革のインレイやオンレイや、箔押しがほどこされているものも、こと基本的な構造に関するかぎり、西暦まもないころにつくられたコデックス(冊子)の 構造と非常に似通っているのである。コデックスも、ふたつ折りした紙葉をひとまとめにして括(section)にし、単数あるいは複数の括 (sections)が革など丈夫な材質の紐で綴じられた。また本の一番前とうしろにくる括の最後のページは表紙の裏に貼られて効き紙となった。
エジプトのコプト本を 見てみよう。1~2世紀につくられたコプト本の初期の製本技術がどのような発展経過をたどったのかははっきりしていないが、おそらくある時に巻物形式の不 便さに気づいて、括形式に移行したのはまちがいあるまい。パピルスの巻物(ロール)は数千年にわたって書写材料として使われきたが、これの文章と文章との あいだの空きを折りたたんだ。その結果、中国や日本の折本のようなジグザグの連続したものができあがるが、折りたたんだその背を打ち抜き綴じにした。当 然、前小口にも折山ができる。こうした形式が普及しはじめると、耐久性の点でパピルスよりもパーチメント(皮紙)のほうがいいということになる。コデック ス形式が登場すればなおさら、パーチメントの優位性ははっきりしてくる。たちまちのうちにパピルスは駆逐されていった。
現存するコデックスで、7世紀以前のものについては、当時の製本がそのままのかたちで残っているものはない。しかし、パーチメントでつくった括の背を太めの糸でかがっていったのは想像にかたくない(おもしろいことに、この綴じ方は現在の機械による綴じ方とよく似ている。一本の糸がそれぞれの括の折山の天地全体にかかるのではなく、ふたつ以上の糸がそれぞれ独立して折山の背をかがっていく)。こうして閉じられた中身がボードに接続された。最も初期の製本がしのばれるものとして良くとりあげられるストーニーハースト福音書は7世紀後期から8世紀にはじめにつくられたものだが、この綴じ方がおこなわれている。
レイズト・コード(raised cord)とかレイズト・ソング(raised thong)という、かがる際に背にわたすコード(紐)を併用するもっと丈夫な綴じ方が英国に紹介されたのは8世紀のはじめとおもわれる。これは製本ばかりでなく本自体に一大革命をもたらした。丈夫な綴じができるため、これまでには考えられなかった大型の本をつくることができるようになったのだ。初期のレイズド・コード綴じの典型的な本は、花ぎれ(headbands)を編む糸も括をかがる糸が連続して使われた。花ぎれの芯は括の背にわたされたコードと同じく、ボードに接続された。その接続法も厚い木製の板(ボード)の背にくるほうに穴をあけて、この穴にコードを通し、板の中途まできたコードをくさびで止めた。ちなみにボードの大きさは本文紙の大きさとおなじである。また背も、今の本のような丸みはなく、平らで、耳もない。したがってたいていの本は煉瓦のかたまりのようにみえる。こうした構造でもなんら支障がなかったのは、当時は本は平らに寝かされて保管されたためだ。ちなみにノルマン人による征服時代以前につくられた、装飾がほどこされていない本は、たいてい明礬(みょうばん)処理した革(allum tawed leather)が表装材として使われたが、たくさんの本が現存しているのをみても、この材料が非常に耐久性に富むのがわかるだろう。こうした時代の本はいまみるとじつに幼稚な製本だとおもうかもしれないが、とんでもない。力強い素朴な美しさがあるし、すべての技術がところを得て使われ、すべての材料が最高の質のもので、しかもその持ち味が最大限に発揮されているのである。
印刷技術と製紙技術の普及により、テキスト・ブロックを構成する材料がパーチメントやベラムから紙へと変わった。しかし本の外観はさほど急速に変化することはなかった。まだ本は大型で、煉瓦のかたまりのようだ。紙も厚手で、そのために綴じた糸は紙のなかに食い込んでしまう。一冊の本のなかにむやみに内容をつめこむこともなかったので、折丁の数も少ない。製本技術が未熟なため紙葉にしわができる—。このため背はふくらまず、したがって丸みをつける必要がなかった。おもしろいことにかなり良質の紙がでてきても、まだ強度の点では信頼できないとおもわれたらしく、糸がかかる括の内側には補強のための短冊がはさまれて綴じられた本がかなり残っている。小口をそろえて切ったものも15世紀の第2四半期ごろの本に見うけられるが、切り口から察するに、どうやら鉋(かんな)のようなものが使われたようだ。またこのころになると花ぎれは折丁の綴じとは独立して編まれるようになった。もっとも糸はそれぞれの折丁のまんなかで固定されながら編まれたために、折丁の綴じと連続して編んだものとの識別は難しいが。
本の出版部数が桁ちがいに増えてくるようになると(15世紀にはすくなくとも3万8千点の本が印刷されたという。また1840~1890年には一点につき400~,500部がつくられたという)本はだんだん小型化していく。紙も薄くなり、折丁の数も増える–ということになって、背がふくらみ、丸味がついて、耳(shoulder)らしきものがでてくる。だが、耳がくっきりとかたちづくられるようになるのは、まだだいぶ先のはなしである。16世紀のごくはやい時期だが、小口のカットがもっと効果的にできる方法が開発される。プレスに本をはさんで、プラウという専用のカッターをつかう方法だ。以来今日でも、工芸的な製本をする場合にはこの方法が用いられている。
これまで見てきたように、初期の本はパーチメントやベラムを折丁につかった大きくて重たいものだった。必然的に製本も丈夫であり、機能的にもうまくバランスがとれていた。しかし小さな本が数多くつくられるようになると、これにあわせて製本もスケールダウンしていく。背にわたされるコードも2本組みのものが1本になり、表紙の芯の素材も木の板から紙を貼りあわせたペイスト・ボードに代わる。金属製の留め金も紐で結ぶ形式になる。折丁のひとつひとつに固定しながら編んでいた花ぎれも、とびとびに固定されるようになる。レイスド・インの方法も簡単なものに変わっていった。型押しも、1470年ごろにドイツでロール(筋車)が開発されると、これまでのようにひとつひとつ押していたよりもはるかに時間の節約になるため、すぐに普及する(ちなみに15世紀に出版された全ての本の三分の一がドイツで制作されたものだ)。ロールは1500年ごろにはイギリスでも使われるるようになる。小口の金つけと表紙の箔押しの、きわめて洗練された方法が開発されたのは1460年代のベニスだ。ほぼ15年後には、これもイギリスに伝わっている。
1525年から1775年までは本の構造での大きな変化はない。ただ、リセスド・コード(recessed-cord)、すなわちコードが括の背にのる(reaised)のではなく、括の背に溝をつくりそこにコードを沈ませる(recessed)方法が、1600年のすこしまえにごろに創案され、主に低廉な本向けの綴じ方としてイギリスとフランスで使われるようになった。また二括抜き綴じが、これよりすこしあとに登場する。二括抜き綴じは一回の運針でふたつの括を綴じる方法である。一冊の本の括の数が多くて、一運針でそれぞれの括を綴じていく普通の方法を採用したのでは、背があまりにもふくらんでしまう場合には最適である。しかし、この綴じを採用した17世紀や18世紀の本の中には、あきらかに綴じにかかる時間の節約のためにつかったとおもわれるものもある。この時代は技術がしだいに洗練され、装丁のスタイルが相当に変化した時代である。1760年代にロバート・アダムという建築家が、ディオクレティアヌス皇帝宮殿の跡に関する本を出版するため、古典的な装飾をほどこした見本を一冊つくったが、これがテキストのテーマに関連付けられた装丁のはじまりといわれている。
一番最初にイギリスで背文字が使われたのは1604年という記録がある。ただし本格的に採用されたのは60年もあとになってからのことだ。16世紀には本は前小口をこちら側に向けて立てた状態で棚に置くのが一般的になってきた。このため本の本の表題は前小口に手書きされた。また、ボードに鎖がついた本がでてきたのもこの時代である。さまざまなツーリングの技法がおこなわれるようになり、一方、室内装飾が派手になってくるのにしたがい、本の背に、本の背にも装飾がほどこされ、棚に置かれたときも背をこちらに出すようになった。また、図書館の蔵書量がしだいにふえてきたため、背に表題をつけてならべたほうが識別しやすいということも、背文字の普及の一因であろう。17世紀の後半には、これより前の時代につくられた本の背に文字をいれたり、ラベルをつけたり、型押しをしたりということが普通におこなわれた。
大陸でマーブル紙を本に使われるようになったのは16世紀である。しかしイギリスで最初に使われた例は1655年までさかのぼるのが限度で、これ以前にはない。見返しに一般的に使われるようになったのは1670年になってからだ。つぎの百年に盛んに使われたマーブル紙はすべて輸入されたものだ。
王政復古につづき40年間はイギリスの製本の黄金時代である。それまで製本のスタイルはフランスを真似たものだったのが、この時代になるとロンドン、オックスフォード、ケンブリッジなどの製本家は、コッテージ・スタイルのような独自の、カラフルで洗練された製本法を開発した。ほとんどの本が基本的にフォリオ判で、赤い羊革に細かい模様を前面に押した装丁がおこなわれた。本をあけてページがななめになったときにはじめてみえる模様を前小口に描くという技法も、1650年ごろのイギリスで発明されたものである。腰のあり、ロープをほぐした繊維を原料とするミル・ボードが使われるようになったのは18世紀の初頭である。この時代には最上の製本は山羊革で表装されたが、シボが羊のそれに似ていてあまり見栄えはしなかった。しかし1760年代からは、ボーディングされた山羊革が使われるようになった。この革は現在でも革装丁本に一般的に用いられている。もっとも今の革のシボは型押しでつくったものだが。同じ時代では、いくぶん質は落ちるものの、そこそこの本の製本の表装にはロシア革が使われた(成牛のがふつうだが子牛の革のもある)。色はたいてい赤茶で、まず例外なく菱形の模様がついた。1800年の前ぐらいまでは菱形は表装するまえの革に押されて、そのあとで表装されたため、模様が消えてしまうものもあった。しかしこれ以降は表装したあとに裏表の表紙にそれぞれ型押しするようになった。成牛の革があらゆる種類の本にもっとも使われた。総革装丁が大半を占めたが、半革装丁(子牛革そのままかロシア革。表紙の平の革以外のところは紙、それもたいていはマーブル紙が使われた)は18世紀の第2四半期に登場する。ただし四半装丁がでてきたのはこれよりも早く、17世紀末にサミュエル・ピープスに献呈された本の例がある。
18世紀の最後の四半世紀は製本史上でも特筆すべき時代のはじまりだった。まず製本行程の二大区分ともいえるフォワーディングとフィニッシングとともにその技術は精緻をきわめ、優美かつ古典的なデザインも含めていくつかの独創的な技術が開発された。なかでももっとも興味をそそられるのは、表装のベラムを透して下の絵が見える技法ではないだろうか。この技術は1785年にジェイムス・エドワーズが特許を得ている。つくりかたは、まずベラムを真珠灰(粗成炭酸カリウム)に漬けて透明に変成し、強圧をかけてしばらくそのままにしておくとできる、というものだ。絵はベラムの裏に描き、白い紙を裏打ちして、しかるのちに本にかぶせた。子牛の革で表装したものにツリー・マーブルをつける方法が、イギリスで採用されたのは1775年であることがわかっている。この技法は今日、大変な器用さ、大胆さが要求されるものとして注目されているが、もともとはオランダが発祥でそこからイギリスに技術が輸出された。子牛革で製本された本のなかには、棕櫚(しゅろ)の模様とギリシャの建築のドリス様式のなげしを図案化したエトラスカン・スタイルの表紙を染めたのやツーリングしたものもある。
18世紀の最後の四半世紀には手作りの工芸的な製本は非常に堅固なものになった。背は適度な丸みがつけられたタイトバックが採用された。タイトバックにはテキスト・ブロックの背に何枚もの紙などが貼られて、そのため本を開いても背がアーチ形に凹まないようにしたものも登場したが、紙葉の厚みがそれほどでもなく、のどの空きも充分にとられていたので、本が開きにくかったり、読みにくいということはなかった。またボードも厚くて丈夫なものが使われた。しかし1815年ごろになると急速に質の低下がはじまる。背が平らになり、コードも数が減らされてしかも細くなった。ホロウバックも登場し広く普及していくが、これに適さない本にも採用されるようになる。また、花ぎれも極細の糸で編まれるようになり、括の背に止める回数も減らされた。しかし、このころまではまだ、クラフトマンシップは健在だった。この時代の製本家として名高いロンドンのチャールズ・ルイスなどは立派な仕事を残している。革も使い分けられた。最上の製本には子牛革、ロシア革、クロス・グレインやストレート・グレインの山羊革が、それより多少下のクラスにはハード・グレインの山羊革が、また廉価本にはペイスト・グレインの羊革やローン革が、一般的に使われることになる。
ナポレオン戦争(1803~1815年)でヨーロッパの経済はかなり低迷するが、これも1830年には回復する。工業生産の飛躍的な拡大は、社会的、文化的な関心が高い新興ミドルクラス層を生む。そして新しいスタイルの本はこの層を読者として当て込んだものだった。人口の急増も本の出版部数の拡大に拍車をかけた。くるみ製本、すなわちテキスト・ブロックと表紙とを別々につくり、最後に合体する製本法が登場するのはこうした時代的背景があってのことだ(くるみ製本は1825~30年にクロス表装本のために開発されたといわれる。しかしすでに18世紀の第2四半期革やシルクで表装された小型の暦に使われた例がある)。くるみ製本は本の製作に革命をもたらした。表紙とテキスト・ブロックを別々に作るのだから、複数の本の製作が同時進行できるし、それまでの一品料理的な作り方、すなわちテキストブロックにまず表紙の芯材を綴じ付け、そこに革などの表装材の被せてゆくというそれまでの方法とは比較にならないほど早く製作できる。1823年ごろに、それまでのあまり見栄えのしない表装用の紙に代わって製本用クロスが開発され、客から注文された本の再製本用として、さほど必要性がなくとも使われはじめる。だが、それも数年後には、さまざまな模様をつけたキャラコの大量生産が可能になり、この上に箔押しができるようになると、一般の本の表装材として急速に普及していく。
製本の技術史でほかに特筆すべきは、天然ゴムを使った接着剤製本とパピエ・マッシェの登場だろう。前者が商業用に採用されたのは1839年である。後者は1840~60年代に多用された。いずれも版元製本の技術である。接着剤製本は大型で石版の図版が入った豪華本に使われた。こうした本が再製本されることは少なかったので工芸的な製本家の職が奪われることにもなった。だが、依然として全ての製本行程は手で行われていたし、クラフトマンシップは最良のものが維持されていたといえる。
しかし19世紀央数十年間で、労働の分業が顕著になるとともに、手製本の分野でもクラフトマンシップガ失墜してくる。一方、装丁も懐古趣味的にはなったものの、往事の素材と比較しても、細かい技術面でも、その違いはいちじるしく、できあがったものは昔の装丁がもつ魅力にはとおく及ばなかった。背もいまや充分に、時には過剰なまでに丸みがつけられるようになる。そして表面的な装飾ばかりに重きがおかれるのと逆に、本の構造や材料の質は軽視された。それでも1824年のマイケル・ファラディの製本用の革の劣化に関する研究のように、断続的ではあるが、本の健康について喚起を呼びおこす努力がなかったわけではない。
当時の製本工芸が陥っていた問題からの抜本的な救済にむけて立ち上がったのが、コブデン=サンダーソンであり、ダグラス・コッカレル他のひとたちである。すぐれた技能をもちながら、あたら浪費を繰り返していたビクトリア朝期のクラフトマンシップが本来の活き活きとした力をとりもどしていくには、19世紀末の彼らの登場を待たねばならなかった。
©Crafts Coucil of Australia
[訳注]
著者のバーナードC.ミドルトンについては、Bookbinder Bernard Middleton celebrates 90th birthday. (British Library Collection Care Blog 26 October 2014) https://britishlibrary.typepad.co.uk/collectioncare/2014/10/bookbinder-bernard-middleton-celebrates-90th-birthday.html
訳語について:1986年に紙媒体に掲載したものを今回ウェブに転載するにあたって、sectionという用語の訳を、「折丁」から「括」という日本語に変更した。「折丁」は、明治期に洋式製本が紹介された際に、中国や日本の本の折った紙葉をあらわす言葉をそのまま転用したものと思われるが、テキスト・ブロックの構造が基本的に異なる西洋(ここでは中東圏も含む)の書物では、sectionすなわち裏表に表記された紙葉を複数枚束ねてふたつ折りしたものが基本になる。例えば1~8のページ番号が付いた括があるとすると、1ページに紙葉として連続するのは8ページであり、2ページは7ページで、この4頁で一枚の紙の表裏を使っている。ちなみに頁一枚はleafというが、4頁で一枚の紙葉をconjugate leaves と表す。この訳語も日本語にない。なお、section を「台」と表す向きもあるが、この用語は基本的に印刷分野での用語であろう。