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スタッフのチカラ
ブック・コンサーバターになるには2009年12月3日メアリー・バーグマン , (沢木喜美子訳)
以下は Mary Baughman “Book Conservation Training Deep in the Heart of Texas” (The Libarary Scene, Vol.5, No.3, June 1986)の全訳である。「本の保存専門家になるには1~3」の表題で『CAP:本の保存のための海外ニュース月報』(Vol.2,No.6~8,January~March,1988)に掲載し、ウェブにもすでに画像PDF(1.5MB)としてアップロードしている。今回のテキストのデジタル化にあたって、若干の訳語の訂正とともに、表題を改めた。
著者のバーグマンさんはテキサス州立大学附属ハリー・ランサム・センター・コンサベーション部(The Cnservation Department of Harry Ransom Center)のブック・コンサーバター。1983年に同センターに職を得る。1988年にKress and Kittredge基金によりスイスの世界的な工芸製本家である Hugo Peller (2003年に鬼籍に。 In Memoriam を参照)のもとで製本を学ぶ。センターとの仕事と並行して、現在、彼女は子ども達にブック・アートの楽しさを教える教室を主宰している。
(2009/10/21 木部記)
はじめに
わたしが本の保存修復の専門家つまりブック・コンサーバターとして一人前の仕事ができるようになるまで、ハリー・ランサム人文科学研究センター(以下HRHRC、ただし現在はHRC: Hary Ransom Center に)で、どんな訓練を受けたのか―それについて書いて欲しいと頼まれたとき、「こりゃマジメにやらなきゃ」と思った。他でもない、わたしは冗談や軽口が大好きで、調子にのると止まらなくなるという困った癖があるからだ。
それはともかく、以下でわたしは自分がどのようにしてブック・コンサバターになったのかをお話するのだが、わたしの経歴と、現在わたしが働いているHRHRCのコンサベーション部の歴史は切り離すことができないので、それについても書こうと思う。なお、読者のなかにはブック・コンサバターになるための訓練や教育に興味がある人もいるかもしれない。そんな人のために最後に情報源の一覧をあげた。
ヒイラギの葉に刺されて
1964年に、わたしの家族はそれまで住んでいたサウス・ダコタからオースチンに引っ越してきた。このころからわたしは書物に対して特別な興味を持 つようになった。涼しい図書館はテキサスの猛暑からの避難場所としては最高だった。12才のときだ。「ここで働かせてくれない?」と頼んだことがあった。 念願かなったのは19才。テキサス大学の学部図書館の配架係として採用された。そしてすぐに目録カードの配列係とHRHRCの配架係なる地位に昇格した。
書物というのは、信じられないくらいに美しいものもあれば、扱うのに特別な注意が必要なものもある。修理しなければならないものもある。そんなことに気がつき始めたのはこのころだ。柔らかいベラム装丁、とても小さな時祷書の彩色写本、見事な型押しの18世紀の子牛革装丁、ちょっとやり過ぎではないかと言いたくなるような型押しがされたビクトリア朝時代のくるみ装丁本、かとおもえば奇抜な現代の製本装丁。こうした本を棚に並べるたびに、製本を学びたいというわたしの気持ちは強くなるばかりだった。19世紀のフランスの革装丁本に刻まれたヒイラギの鋭い葉の先が、わたしの興味をチクリと刺したのかもしれない。
わたしはアメリカ国内での訓練プログラムを子細に調べ、やがて結論した、「1977年の現時点における展望たるや、はなはだ暗いといわねばならない」。ヨーロッパに活路を見出すことにした。だが労働許可書がもらえなかった。わたしのパリにおける“活路”はパートタイムの子守だった。
アメリカを離れる直前に『書物の修復―フィレンツェ1968』という映画を見た。フィレンツェに行った。そして国立中央図書館を訪ねる機会を得た。願ってもない幸運だった。わたしのために午前中まるまる費やして図書館での保存修復プロジェクトを見せてくれたコンサーバターの親切を思いおこすたびに、なんでわたしなんぞにと今でも不思議に思い、あらためて驚いてしまう。
かくて尾羽打枯らし、オースチンに舞戻る結果と相なったのだが、しかし製本を学びたいという気持ちはつのるばかりだった。だが、どこで先生を見つければいいのか?そんなわたしの気持ちとは全く関係なく、HRHRCのカード配列係の職に再びありついたわたしは、やがてカード配列指導係なる大役(つまりは補助員!)をおおせつかることになる。
このころ、テキサス大学では資料保存に対する関心が急速に盛り上がりだした。総合図書館は資料保存委員会を設置した。わたしは自ら申し出て、蔵書調査の立案を手伝うことになる。そしてペリー・カステナダ図書館の図書修理班で約半年の研修を受けた。この時にわたしは大事に至らぬまえに手当てを施すことが、本の保存にどんなに重要なことかを学んだ。
わたしはオースチンのラグナ・グロリア美術館での上級製本講座に参加するために、奨学金をもらった。講師のジム・タプレイは、装飾を施された表紙の奥の書物の構造に目を向けるように、と教えてくれた。わたしは自分の本を使って、それがどんな構造から成り立っているのかを調べた。
チャンス到来!
1980年。ドン・エザリントンがアメリカ議会図書館からHRHRCに移ってきた。「ここにトップレベルのコンサベーション部門をつくる」。それがエザリントンの構想だった。かれは、将来この部門のスタッフになる生徒を探していた。ただし採用にはふたつ条件があった。このうちのひとつは、わたしは文句なく合格である。製本をしたいという熱烈な思いだ。だがふたつめの条件―関連分野で学士号をもつこと―には、かすりもしない。
わたしはエザリントンに会いにいった。そしてわたしが初めて製本したものを見せた。「努力したまえ」―かれはそういって励ましてくれた。わたしがコンサーバターとして一人前になるのに必要な資質を備えていると、かれは教えてくれた。それは手先の器用さであり、書物の細部やデザインに対しての鋭いセンスだという。
チャンス到来。わたしは目録作りの仕事を辞めた。そして学業に戻った。エザリントンは、コンサベーション部の紙・写真保存研究室のスタッフとして、秘書1名、アシスタント・コンサーバター3名、主任コンサーバター1名を採用した。かれらは資料保存プログラムの立案と新しい研究室の設計を始めた。わたしはボランティアとしてそこで働きが始めた。そして後にいわゆる勤労学生になった。大学で歴史の学士号取得の勉強をする一方で、マイクロフィルム制作の方法やカメラの操作法を学んだ。このふたつのことは、以前はHRHRCの他の部門の管理下にあったが、コンサベーション部の仕事の一部として組み込まれたのである。その当時、わたしは、マイクロフィルムの撮影や展示の準備などは自分がやりたいことをやる時間を取られる仕事だと思っていたが、今では展示に関わって良かったと思っている。目録作りの仕事がそうであるように、展示の仕事というのはあとあととても役にたった。
自分の仕事が一段落すると、わたしはブック・コンサベーション・ラボの仕事を手伝い、出来る限りのことを学んだ。こうして1983年に、わたしはこの研究室のフルタイムのアシスタント・コンサーバターになった。
コンサベーション部の管理運営方針や、設備や職員の途中からの変更は、これまでに無かったひとつの組織が一本立ちする際に必ず付随して起こる問題であり、避けては通れない。こうした問題をひとつひとつ克服していくことと、この部門を支えるアシスタント・コンサーバターを養成していく訓練は、あたかも競争するかのように行われた。最初の訓練は、傷んだ書物などをとりあえず今の状態に保ち保管するための箱、つまり段階的に保存を進めるための箱や、その他の保護用の箱の製作に力点が置かれた。設備や備品が揃い、人員も強化されるに従い、わたしたちは紙の補修技術や、その技術を間違いなく適用するための色々な試験の方法を学んだ。やがて製本のための設備が整い、製本の二大工程であるフォワーディングとフィニッシング、つまり本の構造の組み立てと表紙などの装丁をそれぞれ学んだ。
いよいよ修補の対象がHRHRCの蔵書となってからは、それぞれの蔵書にどのような手当てが施されるのかを記録するドキュメンテーションが導入されることになった。わたしたちコンサーバターには、書誌情報の記載や手当ての工程の写真を撮ることが要求される。そこで35ミリカメラの扱い方の訓練も受けた。この文に付けた写真もわたしが撮ったものだ。いつもより出来がいいかもしれない。なにせ、壊れた本などとは被写体が違う。
段階的に保存を進めるための箱を作る技術を習得したわたしたちブック・コンサベーション・ラボのスタッフは、それを目録班の配架係に教えることになった。今度は教える経験を積んでいくことになる。目録班は十年一日変わらぬ作業を繰り返してきたのだったが、それからはたいていの保存用の箱や、ポリエステル・ブックジャケットを作ることができるようになり、今では蔵書の保護に大きく貢献している。
1983年にわたしたちのコンサベーション部は、業務のために特別に設計されたラボに移転した。オガ屑が一掃され、ペンキは乾き、必要な設備が設置された。だが、蒸留水のシステムと燻蒸設備に問題が出て来た。このため当初に予定していた、洗浄や脱酸のためのアルカリ緩衝液による処理、資料に付いた汚れや接着テープの除去などの補修手当ての訓練が大幅に遅れることになった。ひとつ問題が出てきては、それを解決していく―それがコンサベーション部のそれぞれのラボが組織として確立される過程であり、また教育そのものでもあった。
HRHRCの予算を決定するのはテキサス大学である。そして最終的にはテキサス州政府ということになる。州の財政状態によって、自ずとわたしたちにも影響が及ぶ。1985年には給与水準が凍結された。8ヶ月間のあいだ、人員が大幅に削減された。ブック・コンサベーション・ラボにいた4名のスタッフも、ここ以外の、製本をしたり保存業務を行う場で自分達の才能を活かすべく、一人また一人とHRHRCを去っていった。わたしはここにとどまった。自分の製本の技術を、こうした組織のなかで伸ばしていきたかったからだ。
雪解け
やがて「雪解け」の時がきた。4名のスタッフの空席は、キャシー・ベル、ブルース・レビイ、デニス・モーザー、エレノア・スチュワートによって埋められた。シニア・ブック・コンサーバターのレビイは、民間の製本工房ではじめ見習い工として訓練を受け、その後7年間、自分の製本工房を運営したのちに、わたしたちの仲間になった。キャシーとデニスは新米の製本家。エレノアはコロンビア大学図書館学校の保存教育プログラムの卒業生だ。
1. キャシー・ベル(Cathy Bell) 2. エレノア・スチュワート(Eleanore Stewart) 3. ブルース・レヴィ(Bruce Levy) 4. デニス・モーザー(Dennis Moser) 5. メアリー・バーグマン(Mary Baughman)
わたしたちのブック・コンサベーション・ラボは再び順調に活動している。これまで述べてきたような具合に、アシスタント・コンサーバターは仕事をしながら訓練を受けている。レビイと、HRHRCの図書館長であるジョン・チャーマズ氏は、再製本が必要な数組の参考資料を選び出した。組になった本を再製本することは、同じ作業を何度か繰り返すことになるが、この繰り返しこそ上達への近道だ。それに全員が同じことをやっているから、お互いに教えたりして助けあうこともできる。
仕事をしながらの教育の他に、訓練のための正規の講座がふたつある。エザリントン氏もしくはチャーマズ氏が週に一度行うクラスは、本がどのように製作されてきたのかという歴史や、そのための材料のこと、HRHRCの蔵書の特定分野についての理解、そしてそれらの補修について、特に焦点が当てられる。また、外部からの専門家を招聘しての集中訓練講座も開催される。ベラムを本文用紙に使った本の補修、一枚ものの紙を補修する際の真空吸引装置(サクション・テーブル)の使い方、インクによる紙の染色法、リンプ・ベラム製本の構造―等が、これまでの集中講座で取り上げられたテーマである。昨年〔1986年〕6月の講座のテーマは、本の三方の小口への金付けと紙の洗浄だった。集中講座は本当に面白いし、意欲をかきたてられる。講師のひとは、わたしたちに愉快な質問をし、有益なアドバイスをしてくれる。保存業務や製本工芸にたずさわっているひとたちとの、講座のあとの交流もまた楽しい。
これら以外にも、なにか機会があるごとに訓練教育が行われる。最近では、デンプンを加熱して糊にする正しいやりかたについて、討論と実演の一日講座が設けられた。講師はシニア・コンサーバターのナンシー・ヒュー。その蘊蓄をわれわれスタッフに披露してくれた。この講座のきっかけはというと、糊を作るための攪拌装置が研究室に入ったことだった。
災害は、もちろん予期せぬかたちで起こるのだが、これも訓練講座を行うまたとないきっかけになる。配管の事故のために、HRHRCの第一次大戦中のポスターのコレクションが水にやられたことがあった。ペーパー・コンサベーション・ラボのスタッフは、ブック・コンサベーション・ラボのスタッフの経験の乏しい新人たちに、これらの資料を救うにはどのような処置をしたらいいのかを教えた。コンサベーション部はHRHRCの災害救助計画を作成することで貴重な経験を積んだ。HRHRCの各部のスタッフは、万一の場合には各自がそれぞれの役割を責任をもって遂行することになっているが、注意を怠らないために予告なしで訓練をすることがある。わたしの受け持ちは、避難の必要があるときには4階にいるひとたちが、コレクションはひとつも持ち出さなくてもよいから、ともあれ全員が無事に避難したかを確認することだ。
いろいろな仕事
エザリントンを長とする資料保存委員会は、キュレーターとシニア・コンサーバターとで構成されており、年に一度、次の年度の保存手当ての対象資料を選ぶ。なにを優先して保存手当てをするのか、その順番を決めるわけだ。対象となるそれぞれのコレクション毎にひとりのアシスタント・コンサーバターが担当として振り分けられる。担当はコレクションに即した保存プロジェクトを組み立てる。そしてシニア・コンサーバターの指導のもとに、保存用の箱やフォルダー、補修などを行うのである。キュレーターとコンサーバターとが情報を交換する時は、お互いがお互いの仕事を学ぶ良い機会となる。わたしは1700年以前に製作された写本コレクションの担当だ。このコレクションは製本も中身も多種多彩で、それを保存するための仕事ができるのは本当にうれしい。わたしは資料を利用する研究者が、大きくて重たい写本を箱の外にださなくても、箱のなかに入れたままで利用できる、特別な入れ物を作った。
展示資料の陳列や、個々の資料に傷みを与えないように展示するための支えの作成、資料を他の場所に送る際の梱包なども、コンサベーション部が責任をもって行っている。最近HRHRCは、初期印刷本を集めたフォルツァイマー・コレクションを入手することになった。その記者会見が行われるというので、わたしたちブック・コンサベーション・ラボのスタッフは、会見の席で披露するのに使う簡単な支えをデザインするようにと頼まれた。簡単かつ手早く作ることができなければならない。このためのブレイン・ストーミングを簡単に行い、さっそくわたしたちは作業に取りかかった。材料はリグニンを含まない厚紙。これに日本の折り紙の手法をちょっと取り入れて、二種類の台を作りあげた。この台は基本的な形は決まっているが、本を傷めずに展示する場合の必要に応じて、部分的に修正することができる。展示といえば、HRHRCは、工芸的な造本に関わるひとたちの団体であるギルド・オブ・ブックワーカーズが主催する製本工芸展などの、巡回展示会場となることもある。
資料を展示公開して欲しいという要求は高まる一方だ。わたしたちの仕事でも、展示の準備のための時間が増えている。コンサーバターは資料がどのように展示されているかの結果にのみ責任をもち、展示台の作成や梱包は、別の展示の係が行うというのが、将来の望ましい姿だろう。
わたしたちのようなアシスタント・コンサーバターは、自分が興味をもつテーマを積極的に研究するように奨励されている。たとえばアシスタント・ペーパー・コンサーバターのスー・マーフィーは、紙媒体資料の補修に使われるものをもっと深く知りたいとして、和紙の原料となる特定の植物繊維を研究しているし、写本を専門に扱うジェイムズ・ストロウドは、インクの歴史とその鑑定の研究をしている―といった具合だ。こうした研究には各種の分析装置が役に立つ。また、スタッフは、書籍や雑誌の他にオーディオカセット、ビデオカセット、スライドなどを所蔵しているリソース・センターを利用することができる。
このセンターの資料の収集、整理、保管は、わたしの仕事のひとつでもある。今でもわたしはカードの配列と本の配架をしているわけだ。新着の資料から最新の情報が得られるのはうれしいのだが、こういった仕事はとにかく時間を食う。
HRHRCのコンサベーション部は、電話あるいは手紙によるあらゆる問い合わせに、毎日のように答えている。このようにコンサベーション部はさまざまな形で人々が保存について学ぶのを支援している。HRHRCのスタッフはサウス・ウェスト保存協議会(SWAC)の設立にもかかわった。SWACは米国西南部で資料保存に関心をもつひとたちが集まってつくった組織で、毎年3回の会合を開き、講演とスライドによる講義を通して、会員に保存に関する情報を提供している。またスタッフはアメリカ文化財保存協会(AIC)のメンバーとしても活躍している。アメリカ・アーキビスト協会や図書館製本協会などの団体の大会がオースチンで開催されるときには、わたしたちは、よそから来たひとたちのために、デモンストレーションとツアーの日を設定する。HRHRCは、さまざまな分野のひとびとが出会い、意見を交換する場を提供していることになる。こんなわけだから、よそから来たひとがつかつかと歩み寄ってきて「ひとつ原稿を書いてはくれないか」などと言うこともあるのだ。
HRHRCでは毎年、定員制の3日間にわたる講習会を開いている。今年は「資料のモノとしての意味を保存する」がテーマだった。全米から図書館や史料館の管理者がHRHRCに集結した。講習会に使うマニュアルの制作は、スタッフがテクニカル・ライティングの腕を上げる良い機会である。わたしは1985年版のマニュアルに、文章の他に、イラストも描いた。ちょっと自慢したい。
コンサベーション部は、前もって決められた基準に添って、資格のある学生の長期研修の希望を受け入れている。研修を希望する学生は、このための財政的な援助が受けられるところを決めておかねばならない。コロンビア大学図書館学校の保存プログラムの学生であるロクサーヌ・アーカオは、印刷本と写本の保存について、9ヶ月の予定で研修を受けている。学位を取得するのにはここでの実習が不可欠となる。フロリダ州立大学のジョン・デピュー教授は、ブック・コンサベーション・ラボで1ヶ月の実習をしている。教授がここで得た情報は、やがて大学の図書館情報学科の学生に伝えられる。研修生は、ただ教わるだけでなく、われわれコンサベーション部のスタッフに対して、ほかにどんな研修プログラムを行ったらよいかという提案をする。わたしたちはお互いに学びあうのだ。研修生との仕事でわたしが得た最高のもののひとつはと聞かれたら、「彼らとの友情」と答えたい。
ブック・コンサベーション!
さて、以上のようにわたしたちが行っているさまざまな活動を紹介してきたのだが、読者のなかには、いつ製本をするのだろうと疑問に思ったかたもいるだろう。実のところ、わたし自身もそう思いたくなることが無いわけではない。だが、ブック・コンサベーションの仕事も休むことなく続けられている。
最近わたしが手掛けているプロジェクトが、1491年にヴェネチアで印刷された説教集の完全な修復である。総革装丁の本だ。表紙の平と背とのつなぎのところが、19世紀になってすっかり腐って取れてしまった。そこで本の中身を外して、洗浄し、ひとつひとつの折丁を和紙で補修し、蛇腹の形をした綴じ補強紙と、2本の亜麻のコードを支持体にして、全体を綴じなおした。また、綴じを補強したものと一緒に、綴じのための亜麻糸もボードに通した。ボードは中性のマット用紙を重ねたもので、紙やすりで形を整えた。最後にアラム処理した豚皮で本をくるみ、プレスにかける。本の背にはコードの跡が飾りとなってでてくる。今はこの本と、オリジナルの表紙や背等を納める箱を作っているところだ。オリジナルの表紙等は、それらがどのように作られていたのかが分かるように、そのまま残す。ケースに入れて箱に納めるのだが、ケースが中性の紙でできているので、元の革は酸性のまま残されるけれども、新しく製本された本を傷めることはないだろう。
ブック・コンサーバターになるには
HRHRCのスタッフの訓練のための指針は1984年に明文化された。しかし決まりきったカリキュラムというものは全くない。訓練の最終目的は、各人がそれぞれの技術を最大限に伸ばすことにある。このために、わたしたちは、新しい知識を快く受け入れ、あるテーマに興味をもったスタッフが調査研究をすすめるのに支障のないような、風通しの良い雰囲気をつくることに努力している。
職人的な高度の技量を身につけるためには、コンサーバターは、作業を監督する立場のひとが良いと認めるまで、同じことを繰り返して行うべきだ―こういう古めかしい考え方は依然として根強く在る。しかし、まっさらな本ならばともかく、コレクションとしてすでに存在している資料に対しては適切なアドバイスとはいえない。どんなささいな補修であっても、言葉の厳密な意味での可逆性を保持した補修というものはないのだから、対象となる個々の資料の性格に則して、それに最もふさわしい技術を適用していくことが大切なのだ。
思うだけでもわくわくするような新しい訓練プログラムの設置が設計されている。製本工芸とブック・コンサベーションの上級クラスが1987年4月からスタートするのだ。外部から招聘した講師によって、コンサベーションと製本工芸の高度な技術の習得のための3ヶ月の講座が開かれる。初心者ではなく、すでにそれなりの技能をもっていることが、この小さなクラスに参加するための資格となる。ただし生徒は、ここで訓練を受ける期間の生活費をは自分で負担しなければならないが。
この10年間で、コンサベーションは職業として認知されるようになり発展してきた。コンサーバターには、次の3つの専門化した領域が開かれている。保存業務全体の管理運営、保存手当てを遂行するための科学的な調査研究、そして具体的な保存手当てである。とはいえ、比較的小規模なコレクションをもつ期間で働くコンサーバターは、現実にはこの全ての領域に関する問題に直面する。そこで3つの領域を包括する技術の習得が必要になっている。
しかし、アメリカの文化遺産を後世のために保存しようというならば、それぞれの領域での専門家もまた不可欠だ。こうした専門家を育成するための訓練プログラムの設置が必要なことはだれも異論はないだろうが、では、そのためにどんなカリキュラムが適切なのか、プログラムの期間は、受講のための資格は、一人前のコンサーバターとしての認定は―となると意見は分かれる。訓練プログラムで教育を受けたコンサーバターは、実際の現場やあるいは特定の機関で学んだひとたちと比べての優位性はあるだろうか。それとも逆だろうか。専門家が議論すべきやっかいな問題は多い。
以上、HRHRCでの保存専門家の訓練がどのようにおこなわれているのかについて述べた。わたしたちの活動の一端なりとも、読者のみなさんに理解してもらえたなら嬉しい限りである。なお、ブック・コンサベーションをやってみたいと切実に思っているひとたちの役にたてばと思い、以下に北米での訓練機関と情報源をリストアップした。
[訓練機関と情報源]
1986年に執筆された原文、および1987年の全訳には、当時(1980年代後半)の訓練機関と情報源が掲載されていたが、四半世紀が経過した現在では役に立たない。そこで、以下のウェブのページを挙げることにした。
ただし、このページも頻繁に更新されているわけではなく、リンク先のページがないことがある。ご承知おきいただきたい。