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和書「往来物」への保存修復処置– 東京学芸大学附属図書館様所蔵資料「望月文庫」を主として –
2010年03月29日福島希
東京学芸大学附属図書館様が所蔵するコレクションのうち、特に傷みの著しい貴重書資料への保存修復処置をお引き受けする機会を得た。対象となったのは、同大学図書館の「望月文庫」のうち江戸~明治期に出版された「往来物(おうらいもの)」を主とした資料である。「望月文庫」の概要およびコレクションに保存修復処置を施すに至った経緯、実際に弊社で行った処置の報告、保存修復処置後の資料を見た図書館員の方々の感想をまとめて掲載する。
なお、東京学芸大学附属図書館では2010年6月1日付で「貴重資料の修復・保存資料が終了いたしました(修復143点、3,000点を保存箱へ、1,095点を電子化。)」として、同日より特別コレクションのデジタルアーカイブサイトを公開している。
1. 「望月文庫」の概要、保存修復処置を行うに至った経緯
望月文庫とは
望月文庫は、東京学芸大学の前身のひとつである東京府青山師範学校が大正15年(1926)に創立50年を記念する事業のひとつとして創設した文庫である。正式名称は「東京府青山師範学校創立50年記念文庫」であるが、文庫創設には当時の財界人望月軍四郎氏らの厚意を受けたため、一般に「望月文庫」として知られている。師範教育に資することを目的とし、文庫には往来物(おうらいもの)や明治初年以来の初等教育教科書、教育書が網羅的に収集されており、同大学附属図書館における教育史資料の土台として位置づけられる。
往来物(おうらいもの)とは
往来物とは、古くは平安時代から明治時代にかけて広く使われた初等教育書である。もともと往復の手紙文を集めて編まれたことから、往来の名がついたとされる。特に江戸時代は、経済の進展等により庶民層にも文字習得の必要が生じたこと、印刷出版技術が向上・普及したことにより多種多様な往来物が世に送り出された。一般に寺子屋で使われた教科書として知られ、主に読み・書きを学ぶための手本、実用的内容が盛り込まれている点に特徴がある。東京学芸大学附属図書館は望月文庫を核として往来物の収集を継続し、現在その数は約2,500点に及ぶ。版本のみならず、師匠が子どもに書き与えた手本等も含まれ、往来物の世界を一望できるコレクションとなっている。
保存修復処置を依頼するに至った経緯と、その際の留意点
東京学芸大学附属図書館では、かねてより虫害等の重篤な被害を受けた往来物について対策を講じることを課題としていた(なお、この被害は、学内教員の協力を得て平成18年度より行っている資料の劣化状況調査、書庫の環境調査の結果、図書館に資料が所蔵される以前に起こったものであることを確認している)。被害の大きい資料は丁をめくることで破損が進む状況であった。平成21年度、資料の電子化や原資料の閲覧提供を可能にすることを目的として、重要なコレクションである望月文庫の往来物を中心に修復措置を依頼することになった。その際に図書館として留意したのは、以下の点であった。
- 資料に残る触覚的、視覚的な痕跡を資料にとっての重要な情報源とみなし、失われることが無い処置を行うこと。
往来物は教科書的性格を持つ資料であることから、基本的に多くの人に読まれ、使われている。手ずれ、落書きのほか、書き入れ等の学習の過程も多分に見られ、決して状態の良い資料ではない。しかし、こうした痕跡も重要な情報のひとつである。
- 新規表紙は綴じ方・寸法の点で元の体裁を保ち、装飾を施さず、本紙を保護できるものとし、資料の原型を損なわないこと。
望月文庫往来物には後人による表紙を備えるものが多い。これらの多くは近代に作られた酸性の洋紙も多く、本紙を傷める問題を持つものも見られたため、修復に際して表紙を新調し、備えていた表紙は別途保管することとした。
2. 弊社で行った保存修復処置
処置対象資料
No. | 種別 | タイトル | 出版社、元号 | 寸法 | 丁数 |
1 | 日本近代教育史資料 | 文章往来(題簽) | 京都:伏見屋半三郎、文政3 | 225×159 | 33 |
2 | 望月文庫 | 公子行帖 | 江戸:慶元堂、宝暦1 | 272×179 | 21 |
3 | 望月文庫 | 小野篁歌字尽 | 江戸:鱗形屋孫兵衛 | 183×129 | 18 |
4 | 望月文庫 | 広沢書千字文 | 江戸:嵩山房、享保19 | 264×177 | 64 |
5 | 望月文庫 | 行書本朝三字経 | 東京:文苑閣、明治5 | 242×167 | 44 |
6 | 望月文庫 | 和漢朗詠集・上 | – | 263×175 | 35 |
7 | 望月文庫 | 実語教童子教 | 江戸:栄邑堂、元文4 | 267×182 | 22 |
8 | 望月文庫 | 堪忍袋 | 江戸:大坂屋又右衛門、宝暦7 | 254×176 | 30 |
9 | 望月文庫 | 神儒仏近道狂哥 | 明治6 | 246×165 | 35 |
10 | 望月文庫 | 寺子式目 | 宝暦5(写) | 248×171 | 27 |
11 | 望月文庫 | 女今川(下) | 正徳4 | 258×183 | 9 |
12 | 望月文庫 | 女孝経 | 享和2(写) | 69×193 | 12 |
13 | 望月文庫 | 江戸往来 | 江戸:林鶴堂、宝永5 | 261×184 | 19 |
14 | 望月文庫 | 庭訓往来抄 | 江戸:須原屋茂兵衛、天保9 | 253×188 | 75 |
15 | 望月文庫 | 實語教童子教繪抄 | 江戸:大橋堂 | 257×180 | 20 |
16 | 望月文庫 | 小学校教員心得 | – | 221×148 | 7 |
17 | 望月文庫 | 両点節用集 | 江戸:村田屋(治郎兵衛) | 186×146 | 23 |
18 | 望月文庫 | 東海道往来 | 江戸:新庄堂 | 178×119 | 15 |
19 | 望月文庫 | 三代帖 | 江戸:須原屋市兵衛、安永7 | 264×180 | 28 |
資料の状態
形態は和紙(楮)を基材とした版本と写本、四つ目綴じの冊子である。ほとんどが墨による印刷か手稿だが、No.6『和漢朗詠集・上』やNo.13『江戸往来』には朱書きが、No.7『実語教童子教』には本文紙中の絵柄に黄や赤の彩色が施されている。また、No.4『広沢書千字文』は2冊が合本されている。
部分的な虫損や染みがあったり、酸化・酸性劣化によって全体的に茶褐色化したりしているものの、紙力は比較的保たれており、状態は概ね良好である。しかし、虫損によって一部が欠落しているNo.16『小学校教員心得』や、老けによって天の一部が繊維化し、欠損が見受けられるNo.8『堪忍袋』のような資料もある。No.17『両点節用集』やNo.18『東海道往来』は、資料の本文紙に直接ラベルが貼付されており、一部の文字が読めなくなっている。また、No.14『庭訓往来抄』は古書店によって貼られた帯によって、見返しと本文紙の最初の一枚を開けることができない。
保存修復手当て方針
外綴じ糸と中綴じの紙縒りを外して、丁一枚ずつに解体しドライ・クリーニングを行う。染みや汚れの著しい資料は、洗浄により染みや汚れを軽減させてから、漉き嵌め(リーフキャスティング)を行い、本文紙の欠損部に補填する。その後、フラットニングを行った上で元の状態に綴じ直す。元表紙が後人によるもので、木材パルプ紙を用いているものは、品質の安定性に問題があると判断し、新たに安定した品質の和紙で表紙を作成する。その他の表紙は欠損部を修補した上で再利用する。本文紙に直接ラベルが貼られた資料については、ラベルの下にある本紙の情報を損なわないよう注意しながらラベルを取り除く。処置後の資料は一点ずつ保存容器に収納する。
処置工程
①解体
資料を傷めないように外綴じ糸、中綴じの紙縒りを外して解体した。解体した冊子は丁一枚一枚に鉛筆で隅に番号を振って、綴じ直しの際に順番を違えることがないようにした。表紙に本文紙が接着していた場合や、過去の修補で本文紙の裏全面に紙が貼られていた場合は、加湿しながら慎重に剥がした。解体の際に本文紙の一部が外れていたり、外れかけていたりした場合は、薄い和紙(楮)とデンプン糊を使って元の位置に固定しておいた。著しく紙力が低下した本文紙に対しては、解体中に本文紙の文字が損なわれることのないよう、解体する前に予め薄い和紙(楮)を表面に貼って固定してから一枚ずつ解体した。また、本文紙に直接ラベルが貼られている資料については、必要に応じて加湿を行い、本文紙を傷めないように注意しながら剥がした。
④濡らしと洗浄・脱酸性化処置
染みが著しく、本来の風合いを損なっていると思われる場合は、洗浄処置を行った。本文紙のpHは処置前の時点でも比較的高かったが、念のため脱酸性化も合わせて行った。再利用する表紙も同様の処置を行った。処置の際は、彩色摺り部分や後人による彩色、書き入れ部分が現状を損なわないよう、細心の注意を払った。処置の詳細は次の通りである。洗浄水の浸透性をよくするため、イソプロパノール水溶液に濡らした後、水酸化カルシウム水溶液を加えた弱アルカリ水(pH7.5)で、可溶性の酸性物質が出なくなるまで洗浄水を替え、繰り返し洗浄を行った。洗浄後は、紙中の不溶性の酸を中和し、さらに処置後の大気中の酸性物質からの予防策として弱アルカリ化する。水酸化カルシウム水溶液(pH12)を希釈した液に浸漬した。乾燥の過程で紙の繊維に入り込んだ水酸化カルシウムが炭酸化し、アルカリバッファー(アルカリ緩衝剤)として炭酸カルシウムが残留する。処置後pHは平均pH7.2。この処置により、部分的に見られた染みが軽減し、本文紙の白色度が向上した。また、繊維間での水素結合が再度起こったことで、紙本来の強さと柔軟性を取り戻した。
処置前 | 処置後 |
⑦新規表紙作成と外綴じ
化粧断ちを行った本体に表紙を付け、外綴じを行って完成とした。材木パルプ紙を用いた後人による表紙は、全て新規表紙に取り換えた。新規表紙は厚手の和紙(鳥の子)に和紙(楮)で裏打ちしたものを使用した。元表紙を再利用する場合は、元の色合いを損なわないよう、染めた和紙(楮)を用いて損傷部分を修補した。題箋についても同様の処置を行った。外綴じに使用した糸は元糸の劣化が進んでいたため、新規の絹糸を使用した。元表紙を再利用した資料については、元糸に似た色合いと太さの糸を選択し、その他の資料に関しては元糸を参考にしながら、資料の雰囲気を損なわない色合いと太さの糸を使用した。綴じる際は資料に負担が掛からないよう、綴じの強さに気を付けて行った。最後にラベルと題箋を元の位置に貼り戻して完成させた。
3. 保存修復処置を終えて --- お客様から寄せられた感想と今後の課題
以下は、東京学芸大学附属図書館員の方々から伺った保存修復処置後の資料を見た感想および今後の課題である。箇条書きで紹介する。
- 修復方法としてリーフキャスティング法を選択したことによって本紙の修復前の風合いを残せたことは、大きな成果であると感じている。また、虫損部分の補填がしっかりとなされた上、しなやかな仕上がりであることから、利用者に安心して閲覧提供できそうである。
- 表紙を新調・補修したものについては、保存・利用提供のためとはいえ、結果的に資料の原形を変えたことになる。酸性紙等、劣化要因となる表紙を除外する必要があることは明確でも、それに代わる表紙のあり方については、修復の際に明確にできなかった。今後引き続き検討していくべき課題である。このように、処置を行う際に方針確定できない要素が存在する場合にも、可逆的な修復方法であるリーフキャスティング法は有効であると感じる。
- 和装本に対する修復処置は、当館にとって今回が初めての試みであった。虫損や劣化状況は資料毎に多様で、程度にも幅があったため、準備段階では対象資料の絞り込みに苦心した。今回修復処置を依頼し、処置後の資料を確認することで、処置の実際や資料への有効性について具体的情報が得られた。今後の修復方針や基準の検討に活かしていきたい。
*「望月文庫」および「往来物」の解説、保存修復処置についての経緯および感想は、東京学芸大学附属図書館員の方からいただいた情報を元にした。ご協力に心より感謝申し上げます。
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