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【寄稿】公文書館にとっての資料保存の問題は、公文書館の理念の問題である資料保存協議会第2回セミナー
2000年06月16日沖縄県文化振興会公文書管理部 富永一也
資料保存協議会第2回セミナー 「資料保存を仕切り直す — なぜ図書館・公文書館全体の取り組みにならないのか」
はじめに:原理的な議論への招待
「公文書館にとっての資料保存」という演題をいただいたのですが、わたくしはいわゆる「保存/修復」の専門家ではありません。ですから、「臭化メチル燻蒸に替わる虫菌害対策はどうあるべきか」とか、「予防的保存措置とは何か」などといったお話をここでするわけではありません。そのようなトピックについては、わたくしをここへお招きくださった主催者の皆さんの方がむしろよっぽどお詳しいでしょう。ここで、主催者がわたくしに求めていることは、そして、それをうけてこれからわたくしがお話することは、資料保存の技術的側面についてではなく、むしろ「公文書館とは何か」といういわば「原論」的な議論です。
つまり、どういうことかといいますと、「資料保存」を、それ自体で完結した業務としてとらえるのではなく、より上位の目的に奉仕するための手段としてとらえて議論しよう、というのがこのシンポジウムの弁士を引き受けるにさいしての、主催者とわたくしとの合意なのです。
そのためにはまず、「公文書館とは何か」という概念規定が必要で、それを経てはじめて「公文書館にとっての資料保存とは何か」、というトピックを論ずる意味が出てくるというわけです。ですから、主催者の皆さんにお願いして、このシンポジウムへの参加の御案内にも明記していただいたのですが、わたくしの話は、むしろ「公文書館とは何か」という議論に力点がおかれています。また、ここでいう「公文書館」の範疇は、公文書館法(昭和62年法律第115号)で規定しているところの、地方自治体の設置するそれに限定していることをはじめにお断りしておきます。
1 公文書館の領域をめぐる問題
1-1 「公文書館」は図書館、あるいは博物館の一種か~領域的独立性の問題
最初に公文書館の領域的な問題について、ちょっとお話ししたいのです。といいますのは、公文書館というものがあまり世間で認知されていない状況ですが、これは何も世間の方々の責任ではありません。実はわれわれ公文書館に勤めている者の間でも、公文書館とはこういうものであるという理念的な問題をまだ解決していないのです。そういうわけで、ああでもないこうでもない、といった議論が延々と繰り返されているというのが、客観的な状況ではないかと思うのです。
まずは図書館や博物館との比較論を持ってきたいと思っています。なぜかといいますと、図書館や博物館を、公文書館の類縁機関と位置付けて、その比較の中で公文書館を定義づけようとする考え方があるからです。中には、公文書館を図書館、あるいは博物館のひとつの類型としてとらえているものさえあります。
ですから公文書館の領域を確立しようとするときに、これら「類縁機関」との関係をどうつけるかという問題は非常に重要性を帯びてまいります。理念的な面でそれら「類縁機関」に飲み込まれないためには、公文書館の独自性を主張しなければならないという要請があるのですね。
1-2-1三分法の危険性について
さて、公文書館独自の存在意義、存在理由を正当立てるため、どのように「独自性」が主張されてきたのでしょうか。1つは、これは私が勝手にそういう名前をつけましたけど、「三分法」というやり方があります。三分法とはどういうものかというと、図書館、博物館、公文書館を並べて、図書、つまり出版物というか著作物というか、それは図書館の領域である。それから、モノ資料、これは博物館の領域である、と。文書資料、これは文書館、あるいは公文書館でもいいのですけれども、そのカバーするべき範囲であろうというようなやり方で、公文書館の独自性を主張するということが、最近読んだある論文によれば、1970年代ごろから行われていたそうです。
これは非常に危険な考えでして、図書は図書館、モノは博物館、文書は(公)文書館、という裏には分業という考え方があると思うのですね。分業というのは、お医者さんの例で考えるとわかりやすいかと思いますが、例えば目の病気には目のお医者さん、眼科医がおりますし、胃の病気には消化器系のお医者さんがいるわけですね。けがには外科医、赤ちゃんのときは産婦人科医とか、専門がいろいろとあるのですが、概念としては一括りに「医療」という共通項があるわけなんです。ですが、対象とする病気の領域が違うということで分かれているわけですね。
つまり、分業にはメタレベルといいますか、一段上に上がった段階でそれらをくくる、ある概念が存在することがわかります。学校の先生の例でもよいです。数学の先生、国語の先生、皆同じです。これは「教育」という理念が上に来るわけなんです。そういうわけで、図書は図書館、ものは博物館、文書は文書館という三分法を受け入れると、図書館、博物館、公文書館の上に、何らかのコンセプトを持ってくるというのが前提になります。
さて、どのような理念が上に来るのでしょうか。それは文化とか、あるいは生涯教育とか、あるいは広い意味での歴史でもいいんですが、そういったコンセプトになるでしょう。仮に文化という概念を、これら3つの施設の上位に置いてみましょう。実際に図書館、博物館、公文書館を指して「3大文化施設」という言い方がされることもありますので。そうしますと、結局は同じ領域を区切って、たまたま分業しているということになります。ですから公文書館が独立した領域として存在すべき必然性は、論理的にはありません。実際、たまに見る議論で、例えば古文書のケアは博物館でやったっていいのだけれど、あるいは図書館の郷土資料室でやったっていいのだけれども、彼らは手が足りないのだ、予算もない、だから公文書館で面倒見るのだというような言い方がされることがあります。しかし、この議論が正しければ、公文書館の存在の必然性はなくて、図書館や博物館に充分な予算をまわして、公文書館をつくらないままにしたっていいわけなのです。単なるリソースの配分の問題にすぎなくなるのですね。ですから三分法というのはちょっとまずいなというふうに思っています。
今、わたくしはかなり抽象的な話をしておりますが、これには実例もあります。イギリスのアーキビスト協会のジャーナルに載った論文で、あちらでは80年代以降にいろいろと行政改革が進む中でカウンティ(日本でいうと県レベルに当たるのでしょうか)のアーカイブスは、それまでの首長直属の部門、あるいは総務部のような部門から、どんどんとレジャー局(余暇局)に移されて、図書館、博物館と同じところに組織替えし、しかも上司はキュレーターかライブラリアンだという状況が紹介されていました。ですから、私がここで警告していることもあながち純粋に理論的な予測にとどまるものでもないというふうに考えているわけですね。ですから私は三分法という分業の考えはとりません。
1-2-2整理手法やプリンシプルは拠り所とすべきなのか
公文書館の独自性については、つぎのような主張もあります。それは、図書館、博物館と公文書館とは資料の整理手法が違うがゆえに、公文書館は図書館や博物館とは一緒にはなれないのだ、というものです。整理手法、あるいは原則といいますか、プリンシプルですね、それをもって公文書館の周りに城壁を築こうというやり方だといってよいでしょう。
例えば、プリンシプル・オブ・プルーブナンス(the principle of provenance)、「出処の原則」というふうに呼んでいるんですけれども、これは資料を整理する際に、その文書がどこで作成されたか、例えば県庁の場合でしたら、これは総務課だとか、文書課だとか、いろんな部署があるんですけれども、その部署ごとの単位で整理するのであって、それを混ぜたりしませんよと。例えばトピックによって、そのトピックに合致した文書を組織横断的に集めて一まとめにするということはしませんよ、という原則ですね。それがあるから、アーキビスト、公文書館の専門員というのはライブラリアンとは違うのだという言い方があります。
あるいは、原(現)秩序の尊重ですか、文書類はあるがままの姿で保存すべきで、これを撹乱したり、新たな秩序付けをしてはいかんのだという原則もあります。
ところが、これもよくよく考えると怪しい話でして、(文書の)原(現)秩序の保存については、最近では図書館や博物館の方でもこれを採用すべきであるという考え方が、主流になってきているのではないかと思うのです。しかも、図書館や博物館の方から見れば、それらの原則を取り入れて、それに従って文書資料を整理したとして、別に図書館が図書館でなくなるわけでも、博物館が博物館でなくなるわけでもないんですよね。図書館や博物館は、がっしりとそこに存在し続けるわけなんです。
そもそも、手法によって1つの領域を確立しようというのが、もともと甘い考えだったのではないでしょうか。しかも、トピックと出処の原則が整理上必ず衝突するかというと、これは現在コンピューターの目覚ましい検索手段の発達を見ると、幾つもの枠組みでインデックスをつけるのは、全然問題ないのですね。ですから、むしろ公文書館の側で、トピックみたいなものをインデックスにつけてやるということは、これはよくやっていることです。しかも、もとの文書の秩序は動かす必要はないわけなのです。しかも、これからの時代は、そもそもの公文書自体が電子的に作成・保存されるようになっていきます。そうすると、文書というのは、どこにどういう順番で物理的に置くということも、あまり意味がなくなってくる面もあります。整理原則に頼った公文書館の独立性は、砂でつくった城のように、やがて波に洗われて崩れ去るおそれがあると思います。
1-2-3公共性との混同~果てしなき「公文書」の範囲拡散
公文書館の領域について、「公文書」館と名がつくからには公の文書、これを集めるから公文書館なのであるというような説も、根強いのではないかと思います。ここでは公文書の領域が問題になるわけですが、例えばわれわれは沖縄県の公文書館ですから、沖縄県庁で作成したもの、あるいは受け取ったもの、これは公文書になるわけです。しかし、「公」というのは別に行政に限ったものではないという論理で、公文書の範囲を拡大しようとする考えもあります。よく出てくる話は、近世の地方(じかた)文書というのですか、庄屋、名主さんの家に残っているような文書(もんじょ)類ですけれども、これは実質的には、その村々を統治していた支配文書であるからこれも公文書である、と。
さらに話が発展すると、会社あるいは組織、それが公文書であるのは論を待たないけれども、私文書にしたって、これは完全なる私文書というのはほとんどないだろうと。日記ですら、これはいつか読まれること、あるいは出版することを考えて書いている人も多いわけですから、そういう意味では公というパブリック性があると。いわんや手紙はそうであると。確かにAという人物から、Bという人物に送って意志疎通をはかるわけですから、これはその範囲において公共性を持っているといえそうです。
ですから公共性論、パブリック論で言えば、公文書という概念は限りなく拡大します。そういうふうにすると、一部本当に私的な文書があるかもしれないけれども、それ以外のもの、つまりほとんどすべての文書が公文書として公文書館がカバーすべきである、というような議論になってきます。公文書の概念が限りなく拡大するとともに公文書館の負うべき責任も無限に大きくなってしまうわけですが、このことは逆に公文書館の領域を確定するさまたげになってしまうでしょう。領域とは定義上、ある限界をもったものでなくてはならないからです。この問題は後で、公文書館の責任範囲論をするときに触れることにします。
1-3 公文書館の理念こそ公文書館の領域を確立する
さて、ここまでの議論で何が言いたいかというと、対象となる資料に頼ろうとしたり、あるいは整理手法みたいな、プリンシプルみたいなのをつくってそれで砦を築こうとしても、それはいつかは崩れ去りますよ、ということです。そういうものでは、公文書館を規定することはまず無理ではないかということなのです。それではどうするかといいますと、まず理念から入る必要があるのではないかと考えるのです。公文書館というのは、もともとこういう目的がある、それでこういう整理の仕方が出てくる。状況が変われば整理の仕方も変わるであろう。保存対象も状況が変われば、変わるかもしれない。でも理念はある永続性を持っている必要がある。これは永久ということは言えませんので、100年後、200年後、あるいはもっと長いかもわかりませんが、今の政治体制、明治以降にできたこういった体制が、ある激変をもって崩れ去らない限りは、そういったシステムの中に根ざした理念が必要であろうということなのですね。
2 公文書館 -Kobunshokan- の理念
2-1 ひとつの提案~公理として
理念こそが公文書館の領域を確立するのだ、と申し上げました。その理念は何であろうかということになるんですけれども、これはないともいえるし、あるともいえるんですね。ない、というのは、コンセンサスがないという意味で申し上げております。ある、というのは、何らかの原理原則に立ち返って構築していけばあるであろうという意味です。わたくしは、理念としてひとつの提案をしておきたいと思います。
行政の活動の結果として残った痕跡のうち、組織の継続的運営にとって必要なもの、あるいは行政が市民に対する責任を果たすために必要なものを選択し、かなりの長期にわたって利用可能な状態にしておくこと、これを公文書館の理念とするのはいかがでしょうか。そういうふうに公理を設けるとしますと、公文書館の行政的使命というのがはっきりするのではないかと考えます。これは、公文書館を法的に規定するときに有効になってくるのではないかと思うのです。
2-2 公文書館の行政的使命
お手元に、公文書館をめぐる諸法規に関する資料が配布されています。(表1,2)沖縄県公文書館で、今、収集基準の見直しをしているのですけれども、これはそのためにつくった資料です。公文書館に関する法律として、公文書館法、国の法律があります。ここに出ているのは全部沖縄県の例ですが、公文書館法に沖縄県の公文書館の設置条例がぶら下がっています。(表1参照)その下に、県の公文書館の管理規則があって、館で定めた方針として公文書館業務基本体系というのがあります。これらはすべて沖縄県公文書館と直接関係するものですね。それから、この表には載せていませんが、去年、国立公文書館法もできていて、これも関連してくるだろうと。
次に、情報公開に関するもの、国の情報公開法がありますね。沖縄県としては、情報公開条例があります。これは、どの程度われわれ公文書館とかかわるかというと、情報公開条例で公文書の定義をやっているのですよ。ですから、われわれ公文書館が公文書を収集するというときに、県条例とは全く違った「公文書」の定義をしてはいけないと思うのですね。そういう意味では、こちら(公文書館)とかなり密接につながってきます。あと、国の情報公開法、これも公文書館とかかわってくるというのは、この法律の施行を前に、それぞれの都道府県で法律との整合性をはかるために公開条例の見直しをはじめているわけですね。実際沖縄県でも、その改正を検討し始めているところです。
それから、いわゆる括弧つきの類縁機関にしましたけれども、類縁機関、図書館、博物館にかかわる法律として何があるかというと、まず、おおもとが教育基本法です。教育基本法で、図書館や博物館などをつくりなさい、といっています。それに従って社会教育法があって、そこから図書館法、博物館法と続きます。これら法律の間に上下関係はないのですけど、もとはたどれるという関係です。そして、沖縄県の場合だとその下に沖縄県立教育機関設置条例というのがあります。
次に、保存に関するものとして、文化財保護法があります。これは、今のところ、沖縄県公文書館とは直接の関係はありません。100年後ぐらいに、たとえば琉球政府時代の文書に何か指定があればかかわってくるかなということを、考えられることは考えられるので、一応挙げておきましたが。
その次のシートの方に行きますと、諸法規の階層図ですね。(表2参照)これで、いわゆる類縁機関と公文書館が、果たして兄弟関係あるいはいとこ関係にあるのか、はたまた赤の他人だったのかということがわかります。国の法律で公文書館法があります。沖縄県の公文書館の設置条例はこちらにぶら下がっております。その条例に県公文書館の規則や内規はぶら下がっています。それから、また国の法律に戻って、社会教育法、社会教育基本法、図書館法、博物館法、こういったところに、沖縄県立教育機関設置条例、つまり沖縄県立博物館や県立図書館はぶら下がっているわけですね。文化財保護法、これに沖縄県文化財保護条例がぶら下がっているということになります。ぶら下がっているもの同士で横には移動できませんので、公文書館と、図書館・博物館の「類縁機関」は、いちど憲法にまでさかのぼっての血縁関係ということになります。
ということは、親密な血縁関係はないと見たほうがいいわけですね。なぜならば、憲法からぶら下がっている法律は、もう無数にありますから、その中の1つの法律と別の1つの法律との関係でしかない、ということになります。ただし、協力関係がない、あるいは必要ないという意味ではありません。これは、あくまで法律的な枠組みでは別個になっていますよ、という意味なのです。このように図書館・博物館と別枠になっていることを、嘆かわしいと思われる方もあるかもしれませんが、私は逆に公文書館の独自性が保証されている、というふうにとらえています。法律的にいえばそのような理念論が出てくるのではないかと考えています。そうであれば、公文書館の使命も、その枠組みの中で考えていけばよい、ということになります。つまり公文書館は、社会教育の機関であるとか、文化行政のためのものであるとかということではなくて、もっと行政に即したものであろうということが、法律の枠組みを見てもわかるのではないかと思うのです。
2-3 収集基準について~「責任範囲(Spheres of Responsibility)論」の提案
ここまで考えてくると、つぎに公文書館はいったいどういう資料を収集していくのか、という議論になっていくはずです。つまり理念に対する手段といいますか、対象の問題ですね。これは、まだわたくしたちの組織の中で正式のものにはなっていませんが、わたくしの所属する課の中でディスカッションを重ねて、収集基準の見直しを行いました。現行の収集基準でいくと、ほとんど何でも集めましょうというふうにしか読めないものですから。何でも集めましょうというのは、何にも集めませんということと実は表裏一体でして、責任範囲をすべてにかぶせると、これは無責任になってしまうわけですね。ですから、我々が何に対して一義的に責任を負うのか、それをはっきりさせましょうということで、収集基準の見直しをやっているわけなんです。
収集の基準というのは、各県のをちょっと調べているのですが、一般的に評価や選別の基準と明確な区別がないですね。同じ性質の基準を、あるいは収集基準と言っていたり、選別基準と呼んでいたりします。われわれは、収集基準と評価選別の基準は、はっきり分けるべきだと考えています。つまり、収集基準というのは、われわれが押さえるべき責任の範囲を明らかにするのがその目的だと考えています。つまり責任範囲です。そしてその範囲から何を選択するのかを規定するのが評価選別基準です。収集基準に話を戻します。収集基準で明確にすべき沖縄県公文書館の責任範囲は、第一義的には沖縄県の公文書です。あるいは、例えばわたくしは沖縄市に住んでいますが、沖縄市が将来公文書館をつくるとしたら、沖縄市という自治体の公文書、これが収集の責任範囲です。(公)文書館の議論において、その自治体の地理的範囲内に残る資料を、それが公文書であろうと私文書であろうとカバーしようという「地域文書館」という考え方も確かに有力で、これはこれで傾聴すべき点が多いのですが、一番のネックは、例えば沖縄県という自治体の県域と、沖縄市という自治体の市域、これが重なっていることですね。そうすると、ある任意の資料は、都道府県レベルにおいても、市町村レベルにおいても二重に責任範囲がかぶさってきてしまう。公文書館法が、都道府県レベル、市町村レベルを問わず、それぞれの地方公共団体に公文書館設置の責務を負わせている理由が、「地域文書館」理念ではうまく説明がつかないのです。
それではなぜ、地方公共団体は、都道府県も市町村も、独自に公文書館を設置することになっているのでしょうか。それは、それぞれの行政体がそれぞれの公文書を持っているからなのですね。自分のところの公文書については、自分で責任を負えということなのです。それがコア、核の部分になります。収集基準というものはそのような核の部分、つまり責任範囲を定めるべきものだと思います。
3 公文書館の課題
3-1 評価・選別の客観基準~なぜ、それが選ばれて保存投資をされるのか
今後の課題にトピックを移します。まず評価選別ということが、いま大問題なんですね。日本に限らず、アメリカとかカナダの議論を見ていても、どのようなものを後代に残していくかということが、ここ何十年も繰り返し議論されながら解決がついていない問題なのですが、これについてはいろんな人がいろんなことを言っていてどうにも収拾がつきません。この混乱については、さまざまな原因があるのですが、最も大きなものは、公文書館の理念自体が混乱していることではないかと思います。ですから、出てくる議論すべてが混乱していても当たり前なんです。
皆さん保存の専門家の方が多いので、わたくしよりもずいぶんと詳しくおわかりだと思いますけれども、エントロピーの法則から、われわれ人間も世の中のすべてのものも逃れられませんで、文書も劣化する、滅失していく、これはもうだれにもとめようのないことです。それを人為的に遅らせようというのが保存ですから、自然の摂理に反しています。自然に逆らうことに大変なコストがかかるのは当然のことです。そしてそのコストというのは公文書館の場合、税金で賄っているわけですね。ですから、どれをなぜ選んでそういうコストをかけていくのか、選ばれた公文書の客観的な評価基準がないことには、納税者に説明できないのです。
ところがこれが価値論になると、これには歴史的な価値があるとか、それには文化的な価値があるとか、あるいはどれとどれにはそのような価値がないとかというのは、泥沼の議論になってしまうんです。つまり議論が収束しません。これはすでに経験的にわかっていることなのです。すべての人が、すべてにおいてそれぞれ、これは価値があるとかないとかという主観は持っていますので、評価選別の問題はそういう価値論ではだめなんです。価値の主観性の問題は、客観基準とはまずなじみません。一方、行政的使命をはっきりさせて、それを達成するためにはこれこれが必要ですよというのは、逆に手順として客観化できる部分なのですね。それをこれからの課題として、5年かけても10年かけてでもいいんですけれども、やっていくべきなんですね。その上で、市民に対して責任を果たしていますよ、というようなことが言えるようにならなければ、市民に愛想を尽かされる、あるいは行政の中で公文書館が余計者扱いされていくだろうとわたくしは見ています。
3-2 デジタルの衝撃~危機をチャンスに
それともう1つ、課題として挙げたいものにデジタルの衝撃というのがあります。これに関しては非常に危機的な状況にあるとわたくしは思っていますが、通常のこれまでの資料ですと、大体紙文書が主ですので、物理的な劣化の問題はありますが、それをクリアしておけば読めます。ところがデジタルの場合、メディアが劣化するということはもちろんありますが、アナログと決定的に違う点は、コード化されていることです。コードというのはいわば暗号(英語では暗号もコードといいます)と同じで、解くためのものがないと無意味なわけです。
アメリカの事例でも、既に読めないものが大量に存在するということがありまして、また、われわれの生活知といいますか、経験上も何年か放ったらかしてあったフロッピーはもう読めない、あるいは読めるようにするのに苦労する(つまりコストがかかるということです)ということもすでに起こっています。
これはある日気がついたら突然読めなくなっているということで、紙の劣化よりも、ある意味では非常に恐ろしい事態です。しかも、行政の中で、電子文書が占める割合はどんどん大きくなっているのですね。沖縄県の場合も、デジタルによる統合的な文書管理システムを導入する準備はすでに始まっています。導入後には、電子決裁のシステムを取り入れて、公文書は基本的には紙に打ち出さずに、そのままデジタルで保存しておくようになるはずです。
たとえば沖縄県の場合ですと、完結後、最長でも20年を経過すると、すべての公文書は公文書館に引き継がれるような仕組みになっています。ですから極端な話、文書主管課での環境では、20年読めていれば用は足りるでしょう。ところがわれわれ公文書館の側はそれを50年後、あるいは100年後にまで提供しようというわけですから、文書が作成される大もとのところ、つまり本庁における電子記録のフォーマット管理なり何なり、われわれが発言できるようにしておかないと、もうどうしようもありません。責任が持てないわけです。ですからこれを機に、公文書館の方としては、記録管理の方にどんどん口を突っ込んでいく、手を突っ込んでいくというふうにする必要があるだろうと思います。
じつはそこが公文書館の、理念論ではなく、戦略的問題の方につながります。この危機をチャンスに変えて、公文書館が行政の中で地歩を築いて発展する契機にできるとわたくしは考えています。電子文書システム構築の初めから深く関わり、100年後の文書の読解性を保証しますよ、と売り込めばよいのです。われわれは専門家をそろえています、勉強もしています、ということで信頼を得れば、かなり発展の芽も出てくるだろうと思います。このような戦略論は、今日のお話のテーマである理念論の先の問題ですけれども、行政に根ざした理念論を掲げる限りはたいへんに重要になってきますので、あえて触れました。一応わたくしの方からは、このようなお話でよろしいでしょうか。